ブログ書きてぇ。
そう思ってツイートしたのが3月。
なんか自分語りしてぇわ
— 河 (@accomplishjan) March 19, 2020
ブログでも開設するか
そして9月。めでたくブログ開設!!!!
長かった
この半年間「この気持ちをブログで伝えたいなぁ」「ブログあったらこんな記事書きてぇなぁ」「ブログのような個人で表現できるメディア持ちたいなぁ」
と幾度となく思ってきた。そのたびに自分がブログを開設してない事実を認識しへこんでいた。へこんでいることを共有したかったが、ブログがないので誰にも伝えられなかった
その艱難辛苦を超えてのブログ開設。やはりめでたい
ようやく自分の思ったことを全世界に発信できる!うれしい、うれしいぞ
もう悶々と表現欲をためこまなくてもよいのだ!!
そもそも、なぜ半年もかかってしまったのか
こんな苦しい思いをしていたのなら、さっさと作ってしまえばよいのではないか
それとも、ブログを作るという行為は月単位で腰を据えなければ完遂しないものなのだろうか
高校の同期からデヴィ・スカルノまで、あの数多のブロガー達は、建築のような時間と労力をもってしてブログを開設したのだろうか
答えは否だった
このブログの外形が完成するまで、時間にして30分ほどであった
そのうちの20分は画像フォルダからアイコンを選択していた
厳選したおかげでかわいいアイコンになったと思う
いいじゃないか
怠惰なヌオーが、彼らしからぬ必死の表情でヨギボー(巨大ビーズクッション)にしがみついている
「ここに寝転がると楽なんだ」「だから離れてしまわないように掴まってるのさ」
だが彼は気づいていない
ヨギボーにしがみ続けるのに少なくない労力を払っていることを
むしろ以前のようにイスにちょこんと座っていた時のが、豊かであったということを
かつて彼は自由であった、イスから部屋を眺める目は透徹していた
彼は今やヨギボーに縛り付けられている
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取り掛かれば30分でできるブログ開設、なぜ半年もかかったか
結論を申し上げると、これは私の異常な腰の重さに起因する
とかく家にいると何もする気が起きない
何も
起きない
後から思い返しても何をしていたか思い出せない
今思えば、ここ半年「ブログ書きてぇ」と思った瞬間は職場の業務中が大半であった。仕事を終え帰宅途上でも考えていたこともある。
しかし家の敷居を跨いだ瞬間、そんなリビドーは嘘のように消え失せ、ヨギボーに寝っ転がるだけの23歳独身男性が出現する
ヨギボー>>ブログ開設>>>>>>仕事
仕事への逃避としてブログがあった
業務中にブログを書くことができればと思ったが、就業規則に違反していた
仕事を終えると今度はヨギボーにしがみつくことに執心していた
だからなのか
なにも起きなかったのは
なんということだ
ヌオーは私だった
私もまた、ヨギボーに縛り付けられていた
ユーザー名について
ユーザー名は阿寒プリ夫(あかん ぷりお)とした
キャッチ―な名前だと思うので、お気に入りである
私はキャッチーさが全てと思っているフシがある
ブログタイトルについて
表題は「語る阿寒プリ夫」とした
阿寒プリ夫というのは私のペンネームで、とてもキャッチーでお気に入りだ
「語る」というのは「自分語り」である
通常、人間はコミュニケーションの中で適度に自分語りをしながら生きている
A「今日は暑いですね」
B「いや、俺が前カイロ行った時はもっと暑かった」
A「あっ私も前旅行で行ったことありますよ」
B「俺は現地法人とのビジネス。あの時は大変だったよ。なにせ…」クドクド
↑こんな具合だと想定される
ここで問題がある
B、ウザイ
私はいつも心にBを飼っている。私がコミュニケーションに対峙する際、Bがドヤ顔で語ってくる
B「おい、ここはお前の体験を話せば盛り上がるぞ」
B「お前似たようなことやってたよな?アドバイスしてやれよ」
B「おっ、これ懐かしいな、確かあの時は…」
うるせぇ
それやったら、ウザイやつなるかもしれんやん
いや、ウザイやつになる。リスクがある以上最悪を想定して行動すべきだ
よって、私はコミュニケーションの上で意図的に「自分語り」を極力排除して生きている。長いもので、中学のころからの習慣である。気心の知れた仲であれば別であるが、「適度な語り」がないためか、はたまた人間性の問題か、その数は非常に少ない
この習慣を続けていると気付くことがある
「他人、全く自分に興味がない」
意識して「語り」を入れない以上、「語り」を入れられるタイミングは
「阿寒はどう思う?」
などと相手から求められた時となる
これが
ほぼ
ない
予想以上に求められることはなかった。これは当時の私にとって革命的であった。なんだ、全然気にされていないじゃないか。他人を気にして語りを抑制した結果、他人に気にされていないことに気付くとは。今までは無理にこじあけて「語り」を入れていたのか。とんでもないパワーだ、フットインザドアどころか、開いてもないドアを破壊して売りに来ている
この気付きがあってから、やまれずコミュニケーションを取らなくてはならなくなった時は、相手の語りをいかに引き出すかを心掛けるようになった。人の語りを聞くのが好きな自分にも気付いた
それでも、語りたい欲はどうしても出てくる。そんなときは、なるべく落ちがある話であったり、語るに足る情報・経験であったり、断りを入れたりして相手方負担の軽減に努めた(実際に相手がどう思っているかはともかく)
学生時代にはそうして小出しにできてもいたが、就職すると人と接する機会は大きく減った。そうして、着々と語りたい欲が膨らんでいった
この欲の爆発点がこのブログである
既にこれまでにないほど、自分を語りまくっている。「語り抑制習慣」の時点で本邦初公開情報であったが、いきなりワールドワイドウェブに垂れ流している。前科・前歴もなく近所の人々によく挨拶をする普通の男性が、いきなり殺人を犯す構図に近い
ここは、ただ己の自分語り欲を満たすための場所である。自慰行為を世界中に発信する場所である。受け手のことは考えない。ひたすら自己満足に特化する。こう書いておかないと、すぐ受け手のことを考えてしまう。これはさすがに自制するべきか?こんなん誰も読みたくないとか考えだす。つぶやきすら自制が求められる世の中、個人のメディアとして好きにできる場所はもはやブログくらいしかない。ブログくらいは、好きに書きたい
語りたいことは山ほどある
職場で労働をしていると、語りたいことが湯水のように湧き出てくる。そして一人ニヤニヤしている。コロナ対応でマスクをしているのがありがたい。マスクがなければ、狂人である
そんな湧き出たアイデアも、家に帰るともうどうでもよくなっている。ヨギボーに吸い寄せられてしまう。早くこいつを何とかしなくてはならない